PHOTOGRAPHS BY SHINA PENG
彼女の写真からは人肌の匂いがする。どこかなつかしいけれど、初めて嗅ぐ気がする匂い。あたたかくて、湿度があって、なんとなく落ち着く。真逆の要素とされる日常と幻想が、彼女の写真の中では心地良さそう共存している。この儚い生々しさは彼女の写真の強みだ。

愛らしく、聡明で、「チャーミング」という言葉がしっくりとくる。彼女が一番心拍数が上がるのは、カメラの反対側に立つ人間とつながる瞬間だそう。この瞬間を求め日々レンズ越しに人と向き合っているのだ。彼女の写真からは風が感じられる — 明らかに写真なのに静止画ではない様な錯覚を起こさせる。全景の印象だけではなく細部にも工夫をする彼女の写真の緻密さのおかげだろう。

彼女の写真には濃淡の主張が控えめなパステル調、そして薄紅の霞みがかったものが多く見られる。自身が夕映の淡彩に惹きつけられることに意識を向けてみると、昼と夜の間を散々ふらふらしながら、ある時を境に決定的な宵に転ずる瞬間と、記憶が思い出に変わる瞬間に相通ずるものを感じ取っているから、だそう。
shinaは血の上では台湾人だが、日本で生まれ育ち、おまけにアメリカ国籍だそう。彼女が自身のアイデンティティに関して多くの疑問を抱えてきたことは容易に想像できる。「台湾人なのに、一生分の台湾滞在時間を足してみても一年には及ばないし、法律的にはアメリカ人なのに、悩んでいた時点ではアメリカに住んだことなんてなかったし、日本ではどうしても浮いちゃうし」とこぼしている。「いろいろな人の、『〇〇人はこうあるべきだ!』みたいなのに左右されちゃって、どこに言っても私の居場所がない様に感じてて。だから大学に入学した当初は狂った様にアイデンティティ関連のプロジェクトばかり進めてたんだと思う。ハーフ関連だったり、Third Culture Kid (両親が国籍を置いている国とは異なる場所で育った子を指す言葉)とかね。多分プロジェクトを通して、自分なりに答えを探し求めてたんだと思う。」

がむしゃらに、アイデンティティという概念を突き詰めるプロジェクトを進めるにつれ、自身のアイデンティティについてある程度の結論に至ったそう。アイデンティティが確立された、という表現より自身のアイデンティティの流動性を受け入れたという表現の方が近しいのかもしれない。「あくまで、ある程度なんだけど。アメリカの大学に進学したことで『アメリカ人な自分』に少しずつ慣れてきたかな。今、政治的な観点からも、アメリカのパスポートを持っていることがいかに恵まれていることかを痛感していて。だからこそ、責任を持って、アメリカで私と同じ政治的権利を持たない人の分まで発信しなきゃいけないと思っている。」
彼女が初めて一眼を手にしたのは、中学校のころ — 「あの白いペンタックス、いかにもプラスチックっぽくて軽そうだったのに、意外とどっしり重くて驚いたなぁ。」と振り返る。今となっては、ごついブーツを飼いならして、カメラ機材パンパンの鞄をひっさげ、大股でニューヨークの人ごみをかき分けているのだから、たくましいものだ。初めて、カメラを手にしてから、なんだかんだ、カメラを手放せなくて今に到るそうだ。

2017年のうちから2020年の予定を立てている。彼女はそんな人だ。「私はどうしてもこの夢を叶えるって決めてるの。プランなしに、このお仕事はできないよ。」と断言している。もともと、ニューヨークで仕事をする予定だったが現在コロナの影響を受けて、感染者数が日に日に上昇している事もあり一時帰国している。卒業を目前に控えている彼女にとって大幅な航路変更だ。こんな時こそ、慌てず丁寧に舵をきる様に意識しているそう。「いろいろ計画を練っても最終的に不可抗力紛れもなく存在する。でも、私の中でこれに従うのはプランZなの。A案からY案までを網羅して、できる事はやりきって、それでもしょうがない時はプランZに身を任せる覚悟は常にしているつもり。」

「せっかく頭いいのに、写真家になるなんてもったいない!」彼女は常にこの類の発言にさらされ続けてきた。悪意がないのは、彼女も百も承知だが、自分を信じて突き進むしか生き残る術がない世界に身を置く人間にとっては、正直しんどい。何より彼女の聡さは写真家という道でもしっかり活かされている。計画力、企画力、そして彼女の几帳面な性格は写真の中で、何気ない精密さにも現れている。
どうしても、芸術家は感覚、感性、常識、考え方などの要素で孤立させられがちな気がしてならない。無論悪意のある差別というわけではないのだが、やっぱり普通の人と違うよねというニュアンスが会話に紛れ込むことも多々ある。どうしても芸大にすすむ=他の道は断ち切られているという印象がぬぐいきれていない。でも、歴史を専攻した学生が広告PRなどの職につくことがある様に、芸大を経て別の分野に進むこともできるし、ましてや芸術家=フリーランスでもない。知識と肌感を活かしてクリエイティブ·ダイレクターになる人もいれば、美術史を学び美術館などのマネジメントに携わる人もいれば、俗にいう一般企業に就職しながら副業でフリーランスをするという手段もある。芸術に携わる人と、そうでない人を分け隔てるものは極めて少ない。彼らをもう少し身近に感じることで、彼らの作品にこめられた意図に寄り添い、新しいか観点を得ることができるのではないか。

最も尊敬している写真家について、shinaは 「リチャード·アヴェドン、アーノルド·ニューマンと牛腸茂雄」と答え、「アジア系、特に日本の写真家について積極的に学ぼうとしてるの。やっぱり自分の文化を知ることって大切なことだし、親近感があるし。」と続けた。牛腸茂雄氏は70年代から80年代にかけて活動していた新潟県出身の写真家だ。彼の写真は、あたり前として受け入れられている日常の写真を通して社会に対する疑問をぶつけている。shinaが牛腸氏の作品の中でも特に感銘を受けたのは「見慣れた街の中で」という作品だそう。胸椎カリエスを幼い頃に患い、自分の寿命が人の半分ほどだということを抱えた上で、生きた芸術家である。また、病の影響により身長も150cmに満たなかったそう。だからこそ、彼が撮る写真の多くは大人と目が合っておらず、違和感を感じる人も多いであろう—この違和感とは疎外感である。観ている人に、普段自分が当たり前の様に溶け込んでいる世界に、自分の居場所のなさを感じさせる。ありきたりな風景が多いからこそ、引き出せる強い感情なのではないか。shinaは彼の物理的視点からこそ捉えることができた写真を撮る彼に惹かれ、必死に自分の居場所を社会の中で探す姿に自分を重ね合わせたのではないであろうか。
今まであったつらいことに触れたところ、一番苦しかったのは祖父を亡くしたことだと語った。認知症は愛する人を2度失う病とされている — 祖父が自分を覚えていないと悟ったときの鈍痛をありありと覚えているそう。祖父の葬儀については「とてもほろ苦い経験だった。家族4人で揃ったのが数年ぶりで会えて嬉しかったんだけど、集まれた理由がなんとも辛くて複雑な気持ちだったなぁ。」確かに、感情は『嬉しい』とか『悲しい』っていう一つの枠に入りきらないことの方が多いのかもしれない。むしろ、端的に一つの箱に押し込んで、整理しようとするものでさえないのであろう。感情は時を経て、経験を経て、確実に移ろうものなのじゃないか。ほろ苦さの中には少しの甘さが隠れていて、なつかしさには幸せと、寂しさと虚しさが入り混ざっている。
彼女の写真は刹那的でありながらも、日常的だ。この対なる要素を併せ持ったのは物憂げという表現が最も近しい気がする。実家の前を通りかかって、他の家族が自分のかつての家で家庭を営んでいる姿を目にしたときの様な、せつない感情。昔を思い出して「ああ、時間は確実に進んでいるんだな」と気づくさびしさだったり、ずっと疼いていた傷跡のカサブタが剥がれたときの無敵感だったり。写真一枚に対照的な感情を捕まえるというよりも、時間を経ているからこそ顕になる感情の移ろいを捉えようとしている。彼女の写真は昔の自分と今の自分が見つめあって、指触れる瞬間を少しだけつくってくれる。
shina の写真は、社会に対して疑問をぶつける時さえ、人と寄り添うことができるほどの包容力を備えている。自身の写真を通して、社会のあり方、人のあり方を頭ごなしに否定するのではなく、観ている人が「どうしてこの写真を見て、心が乱れるのかな」と向き合うことができる安全地帯の様な役割を果たしたいと語った。

「泣きたければ、泣けばええねん」と彼女は笑いながら言ってくれる。「人生には幸せな時と、しんどい時があるけれど、ほとんど 『幸せと、しんどさの間』で生きてるんだから、」と。迷子になった時も微笑を浮かべて、日々の感情をそのまま受け入れる力を養いたいと語る。「11歳の私に『どういう人生にしたい?』って聞いてみたら、きっと幸せになりたいと答えたと思う。21歳になった今は幸せより充実した人生、やりがいを追い求める人生を選びたい。」

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